2025年5月、サイボウズ式ブックスから『PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来』が刊行されました。
オードリー・タン氏とグレン・ワイル氏の本が、サイボウズから出版された! とあれば、気になった人も多いはず。
しかしこの本、実際に手に取ってみると、分厚いし、難しい……。さまざまな分野の専門知識が前提になっているため、読むのに骨が折れる……という声も聞こえてきます。
「読むのは難しそう……でもプルラリティを理解したい」そんな気持ちの方もいるのでは?と考えた編集部。そこで、英語版の執筆にも関わり、個人でプルラリティ運動にも携わっている、サイボウズ・ラボ 主幹研究員 西尾 泰和(にしお ひろかず)に「いちばんやさしいプルラリティ解説」をお願いしました。
「これは日本にも伝えたい」日本語版『PLURALITY』出版のきっかけ
『PLURALITY』読みました。難しかったです……!
全部わからなくて大丈夫ですよ。この本は、プルラリティに関係する事例や技術をまとめたカタログみたいな本です。
著者の2人も、最初から読まずに気になったところから読めばいい、と言ってますし。
少し安心しました。西尾さんは日本語版『PLURALITY』出版のプロジェクトリーダーとのことですが、どのような経緯が?
2年前に参加したイベント
「PLURALITY TOKYO 2023」がきっかけです。プルラリティのコミュニティカンファレンスで、オードリー・タン氏など18名が登壇したイベントでした。
僕はそこではじめて
プルラリティの概念を知り「これはおもしろい」「日本でも知られてほしい」と思ったんですね。
その後、英語版『PLURARITY』執筆がGitHub(※)上で進んでいるのを知って、日本語の機械翻訳を作り始めました。社内の発表会でPLURARITYの話をしたところ、サイボウズ式ブックスチームに話が伝わり、今回の出版につながりました。
※ GitHub:プログラムやデジタルファイルの変更履歴を管理するWebサービス。主にソフトウェアの開発で使われる。『PLURALITY』は GitHubを利用し多くの人たちの共同作業によって執筆された。
PLURALITY “TOKYO” ということは、他の都市でも、同じようなイベントがあるんですか?
各国でプルラリティ運動があるんです。情報共有をしたり、技術開発したりといった活動をしています。
プルラリティのコミュニティが各国で活動しているんですね。
西尾 泰和(にしお ひろかず)24歳で博士(理学)を取得。2007年よりサイボウズ・ラボにて研究に従事。主幹研究員。ソフトウェアによる知識創造の進化に関心がある。著書に『コーディングを支える技術 ~成り立ちから学ぶプログラミング作法』(技術評論社)、『エンジニアの知的生産術 ──効率的に学び、整理し、アウトプットする』(技術評論社)などがある。一般社団法人未踏の理事を兼任。
結局、プルラリティって……なんですか?
本を読み終わった今も、プルラリティがなにか、あまり理解できていません……。どんな概念か、初心者にもわかるように教えていただけますか?
複雑な社会を単純化しないで理解しようという話なので、どうしても複雑な表現になります。単純化するとそれはプルラリティじゃなくなってしまう。
オードリー・タン氏も「我々が言いたいことを表現するにはたくさんの形容詞が必要」と言っていて。
オードリー・タン氏が講演などでよく使う説明は
"Plurality means technology to foster the diversity in society and the collaboration across those diversities."
です。
「社会にある多様性を育み、多様性をまたいだ協力を育てる技術」です。
多様性は大事なのですが……。いま「多様性」というと、性別や⼈種などのことを考える人が多いと思います。
もちろん性別や人種は重要な違いですが、プルラリティの焦点は、多様な人々が協力し合うこと、そのための調整技術や考え方です。政治だけでなく、企業でも使えるし、さまざまな分野で活用できる概念です。
「人種」や「政治」など、特定の分野の色がつかないために、プルラリティという新しい言葉を使っている背景もあります。
なるほど。多様な人たちが協働するための技術、考え方、というところがプルラリティのポイントなんですね。
プルラリティの代表例がブロードリスニング
歴史を振り返ると、中世以前は直接会話するしか情報伝達手段がなかったので、1人の人が考えを伝えられる人数は限られていました。
15世紀以降、印刷や放送など「情報を複製して多くの人に発信する技術」が発展してきたことによって、1人が大勢に考えを伝えることができるようになりました。そして新聞やラジオ、テレビが生まれてきたわけです。これが「ブロードキャスト」つまり「広く投げる」です。
ブロードキャストの技術により1人が多人数に意見を伝えられるようになった
しかし一方で「大勢の人が発信したものを1人が受け取る」という逆方向はできなかった。大勢が1人に向けて発信すると、情報の洪水で溺れてしまうからです。
たしかに、1人に数千、数万の意見が来ても処理しきれないですよね。
最近では政府がパブリック・コメントを募集したら、何万通とコメントが来てしまって、行政職員さんが仕分けに苦労しているという話も耳にします。
人間が手動で処理するには限界がありますよね。
量産型パブコメの落とし穴──税金と民主主義を守るためにAIが必要な理由
しかし近年、AIによる要約技術が発展してきたことによって、大勢からの意見を受け止められるようになってきました。ブロードリスニング、つまり「広く聞く」ことが可能になってきたんです。
数万の意見が来ても、AIが要約してくれれば意見を吸い上げることができるんですね。
ブロードリスニングによって、多人数が発信した意見を意見を受け止められるようになった
わたしの関心領域はもともと「人間の知的生産性の向上」でした。
ブロードリスニングによって人間の他者理解能力を増強できれば、それは知的生産性の向上であるというふうに感じて、これはおもしろいなと思ったんです。
西尾の著書
「エンジニアの知的生産術 ──効率的に学び、整理し、アウトプットする」(技術評論者) 仕事をするうえで、どのように学び、整理し、アウトプットするのか。
ソフトウェアエンジニア向けに、プログラミングと執筆を具体例として、知的生産の方法を解説した書籍
多様な人々が協働するためのツール「Polis」
ブロードリスニングを実現する具体的なツールはあるんですか?
代表的なのが、台湾で配車アプリUberの法制度化で利用された「Polis」です。
「ゆるコンピュータ科学ラジオ」でも解説されていましたね。編集部でも実際に使ってみました。
「ゆるコンピュータ科学ラジオ」で話題の“世界を救うSNS”、Polisを使ってみた
Polisでは、出されている意見に対して「賛成」「反対」「どちらでもない」のいずれかに投票します。
はい。なにか意見を言いたいときは、新たな論点を自分で立てる必要があります。各論点への投票結果をもとに、ユーザーをグルーピングして可視化します。
おもしろいのは、グルーピング化した上で「各グループが共通して支持している意見はなにか?」がわかることです。
Uberの議論では当初は賛成派と反対派に分かれていましたが、最終的に「乗客を乗せるドライバーは事故に備えて保険に加入すべき」という意見などが投稿され、どちらのグループからも支持されました
じゃあこれを法制度化しましょう、という結論を導けるわけです。
たしかに「立場の違う人たちが協働する技術」ですね!
Xで起きているような炎上は起きないんですか?
XなどのSNSではエンゲージメント(投稿に対する反応)を高めることを目指してアルゴリズムを最適化しています。
つまり、人々が感情的に反応する、過激な意見ほどピックアップされるようになるわけですね。
一方Polisは、過激な意見ではなく、各グループから賛成される意見に注目が集まるように設計されています。
このような仕組みがあれば、自分と異なる立場の人が、どんな意見を持っているかを知る機会が増え、視野を広げるきっかけにもなります。
たしかに。
ここまでブロードリスニングについて聞きましたが、書籍では他の技術についてもいろいろ紹介されていましたね。
「クアドラティック投票(Quadratic Voting)」や、「デジタルID」などさまざまな技術や思想が紹介されています。気になったところから、調べてみるといいですよ。
実はサイボウズにもあった、プルラリティ事例
本を出版したということは、サイボウズとプルラリティには、なにか深い関係があるんでしょうか?
実はサイボウズはプルラリティという言葉ができる前から、プルラリティに近い考え方で制度や仕組みをつくっていたんです。
20年前のサイボウズでは「フルタイムで働き、金銭を稼ぐことが最も重要である」という単一の価値観で人事制度が設計されていました。
しかしそれでは「家庭を大事にしたい」という価値観の人が離れていってしまった。そこで、まず働き方を2つに分類し、やがてそれが9分類になり、現在は個々の事情を聞いてマッチングするようになりました。
自由すぎる……! サイボウズが最近はじめた新しい「働き方制度」について聞いてみた
初公開! サイボウズの自由すぎる働き方はこんなやり方で管理されていた
編集部注:上記記事内で紹介されている「働き方宣言」は2018年の制度。2025年現在は、チームと個人の理想をマッチングするやり方に変化している。(参考記事)
1つの「型」を作って当てはめるのではなく、個別にマッチングするプロセスはとても手間がかかります。しかしサイボウズではkintoneなどのコミュニケーションを効率化するソフトウェアを活用することで、これを実現しています。
プルラリティは「技術の進歩によってコミュニケーションが効率化すれば社会構造がよい方向に変わるよね」という話なので、kintoneなどを活用して、多様な人たちが一緒に働ける状況を作り出したこの制度は、プルラリティの成功事例といえます。
なるほど……。サイボウズで多様な働き方が成立しているのは、kintoneやGaroonなどのグループウェアがあってこそ。この構造そのものがプルラリティと言えるんですね。
プルラリティの社内実験を準備中!
サイボウズの経営会議で使われている助言アプリもプルラリティ的と言えます。
経営会議の議題に対して誰でも意見を伝えるシステムですね。
経営会議での起案に対する助言の例。「在宅勤務手当の廃止」の議題に対して、承認までに70件以上の助言が集まった。助言はkintoneで誰でも登録・閲覧できるようになっている。(画像は編集部にて一部抜粋・編集したものです)
立場の違う人たちの意見を広く聞き、経営判断に活かそうというのは、ブロードリスニングの発想です。
実は近々、ブロードリスニングの社内実験を計画しているんですよ。
ブロードリスニングを実現するツールの1つである「いどばたシステム」をサイボウズ社内で利用できるよう準備を進めています。
そうなんですね! 実際に使ってみたら、イメージが湧きやすくなるかもしれません。
サイボウズも社員数が1,000人を超えて、一人ひとりの意見がわかりづらい、届きづらいと感じるシーンも出てきました。その穴を埋めるツールになるといいですね。
まさに。プルラリティは「これを導入すればすべてうまくいく」という特効薬ではありません。
課題がある部分に対して「こうしたらうまくいくのではないか?」という提案であり、選択肢です。
サイボウズの中で、プルラリティをどう生かしていくか、今後も考えていければと思います。
お話を聞いて、プルラリティが少し身近になりました。ありがとうございました!
企画・執筆:山本悠子(サイボウズ) 編集:高橋 団(サイボウズ)撮影: 尾木 司